グッバイ・クリストファー・ロビン を観た

20-08-17

DVD イギリス映画

 

一言で言うと切ない映画。

先日見た、プーと大人になった僕を踏まえて、見たくなった。

 

後味があまりに悪いというか、なんといえばいいのか。

ここまで、酷い話を、あれだけ美しい映像で描けるというのも、なんというのか。

 

早い話が、美人な妻に振り回される優男の作家と、両親からのイビツな愛に翻弄された少年の物語、ということになるのだろうか。

 

プーさんの作者であるAAミルンは、戦争から心を病んで帰ってくる。

そして美しい妻との生活を再開する。

売れっ子作家だった彼は、快調に作品を書き、子供も生まれる。

しかし、妻は女の子を望んでおり、男の子は欲しくなかった。

その理由が後段明かされる。男の子は戦争に行ってしまうから、と。

この母親が、不思議な人で、慈愛に満ちた笑顔でクリストファーロビンに接すルカと思えば、無責任に逃げ出す母親。

 

そして父親は、優男という表現がぴったりの温厚で、そして距離のある人。

その理由の一つが、戦争のPTSD。

 

以前、だれか作家が、新聞で語っていたのが、自分の親の世代は戦争経験者が居て、その人たちが怖かった。突然怒鳴りだしたり、という話から、今にして思えば彼らはPTSDだったのだろうとまとめていて、今回、その話を思い出した。

ミルンの場合には、風船の爆発音とか、ライトとか、そういうものがきっかけになっているが、実際に戦争を経験した人であれば、もっと些細な事がきっかけになったり、あるいは、何かを思い出したりということも多かったのだろう。

それの連続で考えれば、自分が中学のころまで接していた大人たち=教師たちは戦争の思い出を引きずっていたのだろうと思う。

戦争を思い出す季節だから、そういうことに考えが行くのかもしれないが、やはりまともな神経の人が経験できることではないのだ。

 

そして、奥さん、ダフネ。アポロンの愛を拒絶した神の娘の名を持つこの奥さんは、魅力的なんだろうが、よい妻、よい母ではない。父の原因は戦争とわかるのだが、この母が母であることを拒否するのは何故なのか?難しい。

 

そして、クリストファーロビン。

映画のはじめに、彼の戦死広報が届く。これで彼は苦しみから解き放されたのかとも思えるが、しかし実際には誤報であり、父の悲しみが辛い。

その後、父と和解したかのような終わりの描き方だが、しかし、彼は熊のプーさんに関わる印税を一切受け取らず小さな書店主として人生を終えたという。このことだけでも、彼はやはり物語と父への複雑な思いを抱えたまま生きたのだろうと思う。

まぁ、のんびり過ごせるはずの幼少期にあれだけひっぱりだされれば、それはもう気の毒以外の言葉は思いつかない。

 

しかし、結局のところ、人を動かしそして時代を超えて語り継がれる物を作るには、あれだけのエネルギーが必要であり、そして生贄が必要なのだろうか。

 

グリーンブックを観た つづき

印象的なセリフが、"Dignity prevails always" というものです。

"You only win when you maintain your dignity. Dignity always prevails."

という流れの中でのセリフです。

 

字幕がどういうものだったか、記憶にないですが、

「品格があれば勝つ」「勝つためには品格が要る」

でしょうか?

 

ああ、だからこそ、ドクは常に上品であろうとしたのだ、と。

そして、ローザ・パークスを思い出しました。

wikipediaの記事は

ja.wikipedia.org

詳しいことは、wikiの記事を読んでもらえば、なんですが、

だから、彼女はどんな目にあってもバスに乗り続けたのだな、と。

 

ドクは、常にスーツを着て、ネクタイをしめて。

安宿でくつろぐ時でさえ、スーツのまま。

目の前で、黒人たちが寛ぎ楽しんでいるときにも。

 

ドクの姿は別として、ローザ事件は、アメリカ社会に大きな影響を与えます。

破壊的なと言ってもいいぐらいの。

この事件をきっかけに、黒人差別の社会システムを黒人が拒否するようになり、

そして様々な法律を変えていくことになるわけです。

 

公民権運動はその後も様々な事件を経ます。

 

有名どころで行くと、リトルロック高校事件というものもあります。

法律では、黒人と白人の融合教育が規定されたにも関わらず、これを拒否しむしろ先導した知事が、黒人学生がこの高校に通学するのを拒否し、そのために修平を派遣。

これに対して、ワシントンのとった行動は、国軍の派遣。

高校のころ、当時のニュース映像を見ましたが、知事は白人デモ隊の先頭に立ち、大きく通せんぼをし、黒人を拒否する。

 

結果的には直接的な暴力による衝突は起きなかったわけですが、しかし、いざとなったら軍隊を派遣してでも、という双方の意志の強さとその映像のインパクトの強さ。

 

その後、ワシントン大行進などに続くわけですが、やはりdignityが大事なのだと。

 

と思った理由もあるにはあります。

 

ちょうど直前に、こういう本を読みました。

 

マルクス・アウレリウス『自省録』 2019年4月 (100分 de 名著)

マルクス・アウレリウス『自省録』 2019年4月 (100分 de 名著)

 

 高校の世界史の授業でならった、古代ローマの黄金期(だと思うんですが)の、五賢帝時代の最後の皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』の解説書というか、解説番組のテキストです。

古代ローマで最高の権力を持っていた皇帝でさえ、こんなに苦しみ自らを律していたのか、と。

最近色々と不愉快な事が続いていて、周りだけではなく、それに対して対応できない自分自身に対してその不甲斐なさに、やりきれなさを覚えていただけに大変感銘をうけ、そして、なるほどなぁ、と痛感しながら読んだのです。

 

で、この映画を見て、ドクの姿が、マルクス・アウレリウス・アントニヌスと重なって。腹のそこから、なるほどなぁ、と痛感いたした次第。

 

解説している岸見一郎という人は、「アドラー心理学」の開設者として著名な人です。

 

さておき、心が折れそうになることがとても多い僕にとって、この "Dignity always prevails" というフレーズが、とても胸をうったのです。

 

また、長くなりました。

続きます。

 

 

 

 

グリーンブックを観た

良かった。

 

これだけ力を入れた映画なのだからダメな訳はなく、アカデミー賞の受賞も当然でしょう。

 

とはいえ、他の人とはちょっと違う(だろう)感想を僕は持ったのです。

 

作中で、トニー・リップが、"I am blacker than you"といい、

ドックが、"So if I’m not black enough, and if I’m not white enough, and if I’m not man enough, then tell me Tony, what am I?!"

というシーンがあります。

 

僕自身は、日本人であるけれども、Black であるという自覚を持っています。

どういうことかと言えば、僕はアメリカに2回留学しました。

一回目の留学は、オハイオです。今回の映画でもちょこっとだけ出てきましたが、そこのすんごい田舎町。人口二万の町のそばにある人口数百から千人台の小さな町々の中にある、日本でいえば群立の高校に通ってました。

で、ホストファミリーは、黒人家庭。

これがね、珍しかったんです。

僕のいたタイミングで、僕の学校に居たピュア・アジア人は僕一人、アジア系のハーフが一人、そして黒人は0。

 

ところで皆さん、オハイオってどういうイメージを持たれますか?

普通の人には、日本語の「おはよう」に似た音の州、それぐらいだと思うのですが、

僕の理解だと、アメリカでもっともアメリカらしい州がオハイオです。

何がアメリカらしいのか、というのは、各自それぞれの理解があるとは思いますが、

アメリカ50州のうち、大多数の州の最も平均的な姿、つまり、白人が大多数を占める社会で、黒人が一割程度、そこに数パーセントのアジア人と、アジア人よりは多いだけのヒスパニック系が居て。

町の主要な産業は農業。近所にちょっとした産業を抱える都市があり、若手はそこに働きに行く人もいるけれど、基本は村で農業な暮らしを送る人が大半。町の中心には教会があり、普段は教会に行くことは少ないけれど何かあったら人は集まる。町の中心にはもう一つ、高校があり、そこのフットボールスタジアムにはフットボールの季節になったら地域の人たちが集まり試合に熱中するというより、馴染みの人間をさがして騒ぐ。

 

僕が映画やテレビで感じた一般的なアメリカはこういう姿で、オハイオの片田舎というのはまさにそういう地域なのです。 アメリカ社会の平均値というより、中央値といいましょうか。

 

オハイオは、中西部に位置します。

雑誌エコノミストは、「この中西部の一画はアメリカのあらゆるものの一端を含んでいる。北東部の一部であり、南部の一部である。都市の一部であり、田園部の一部である。ぎりぎりの貧困の一部であり、景気の良い郊外の一部である。」と記したそうで、まさにその通りなんです。

 

さらに付け加えれば、オハイオ州からは7人の大統領が生まれています。「大統領の母」という呼び名さえあります。先日の大統領選挙の時にも報道されましたが、オハイオ州を制した候補が全米を制しています。

それぐらい、アメリカの中のアメリカ、平均的なアメリカというより、中心値的なアメリカなのです。

 

普通の日本人は、NYかLAあるいはSFあたりをアメリカとイメージするでしょうけど、違うんです。日本にとっての、大都市近郊の中小規模の町とでもいうべきなのかもしれません。地下鉄は無いけど、ショッピングモールはある。電車か高速バスを使えば一時間かそこらで、地方中核都市に行ける、ぐらいの。

  

で、僕は白人だらけの社会にポツンと飛び込んだアジア人で、英語が本当にできなかった。はじめの三か月ぐらいは何をどうして過ごしていたのか、今でも不思議なぐらいです。チンパンジーとジャパニーズを聞き違えたという実話もあります。

 

無我夢中に過ごした月日が過ぎ、少しずつ言葉や周りの状況が見えてくると、自分なりの理解が進みます。

 

なるほどオハイオ州はアンクルトムの小屋でも描かれた自由州だけあって、人種差別はない。黒人も白人も仲良く過ごしている。アジア人の僕も皆が受け入れてくれる。

 

のは、表面だけの話なんだ、ということに。

 

差別が本当に怖いのは、普段は良いんです、だけど、時おり瞬間的に人間の本音が見える。その瞬間、すべてが、とまります。

景色が色あせます。耳は騒音しか聴こえなくなる。

目の前の友人が、親しい友人が、人の顔をした何か別のものに思える。

 

次の瞬間、何も無かったかのように、元の時間の流れにもどります。

友人の顔は、一瞬引きつり、そしてすぐに元の笑顔に戻る。

 

何回見たことでしょう。

 

というほどの回数はありません。

ありませんが、一回一回が、僕の心には永遠の記憶となって残っています。

あの空気、あの喧騒、あの目線。

 

85年のアメリカは、最後の黄金期でした。ソ連との雪解けを行い、アップル社が小さなおしゃれなパソコンを売り出し、社会に余裕と夢があふれていました。

そして、1986年1月20日、はじめてのキング牧師の日に僕は黒人教会でそれを祝う事が出来ました。

 

僕が知っているオハイオは、85年から86年の一年間だけ。元々が自由州。南北戦争では当然ながら北軍で、奴隷制による巨大プランテーションもなく、黒人の数も少ない。

僕の記憶が正しければ、当時全米で唯一の黒人のための州立大(セントラル州立大)があったのもオハイオです。

そのオハイオでさえ、今思い出しても胸がつまるような思いをせざるを得ない、差別意識が皆の心の低層、基盤に根強く残っていた。

 

それから考えると、映画の舞台の1962年がどれだけ酷い状況だったのか。

 

想像する事すら恐ろしい。

 

これを踏まえての感想です。

長くなりすぎたので、次の記事で。

キングダムをみた

宮崎セントラルで鑑賞。

人が多すぎた。封切からそれなりに時間がたっていると思うのだが、こんなに人が多いとは。

人が多い映画館は苦手。とくに今回は、隣の人がおとなしかったけど、臭かった。シャツの生乾きのにおい。あれはきらい。

 

作品そのものは、あの原作をどう実写化するのか(アニメなら十分だけど)と思っていたけど、おおむね失望することの無い出来だった。

時代が古すぎるから、時代考証とか史実とかは考えず、作品世界に没頭できればそれで良い。とはいえ、中国の古代史マニアには噴飯ものなのだろうけど。

 

主人公信の無茶ともいえるパワーも十分に伝わってきた。

相方のヒョウと秦王エイセイとの二役もとてもよかった。

単純な表情の違いを、あれだけキチッと演じ分けられるのは、本人の力か、監督の力か分からないが、良かった。

とくに、信が傷を負い、目を覚ますシーン。ヒョウの自然な笑顔が信の心に入るような空気感が、その直後エイセイの冷徹な表情に切り替わるところが、なんともいえずに良かった。

 

また、終盤、オウキ将軍が、秦王エイセイに、天下国家の在り方について尋ねるところ。歴史に汚名を残すことになった良いか、の部分で、エイセイが決断を決然と述べる所は、この作品すべてに対して抱いてきた疑問を氷塊させる上で大変に重要だと思う。

自分の場合、秦の始皇帝の原像は、本宮ひろしの『赤龍王』での始皇帝

とくに、彼の施政・姿勢に異を唱える儒者に対し「煮殺せぃ」とうなるように言うシーン。

 

あの大悪党と、その彼の成長・征服譚と、それを支える主人公の姿として考えた時に作品への基本的な違和感となっていた。

 

始皇帝の政治の在り方は苛斂誅求に過ぎる、という視点で描かれることが多いが、しかし、本作のセリフであったように、500年続いた動乱を終わらせるためには、かなりの思い切った策が必要というのも、この歳になり、それなりの経験を積むとそれなりに分かる気はする。

それぞれの地方にそれぞれの文化があることそのものは、良い事だろうけれども、文字が異なるだとか度量衡が異なるだとかは、統一した方が便利ではある。500年のいきさつを踏まえて考えれば、それぞれの地域がそれぞれに好き勝手なことをしたいという気持ちもわかる(現に、その後の中華はそうやって分裂を繰り返していたわけで)、そのためには強烈な法の支配というのも大事なのだろう。

 

作中人物では、やはりオウキ将軍(王騎)を演じた大沢たかおが出色でしょう。

原作でのオウキの変な感じが十二分に出ていたとまではいえないものの、生身の人間の努力としてはあそこまで出来れば十分なのか、と。特に今回は体重を15キロだか20キロだか増やして臨んだというし。まぁ、白髪三千丈的な馬鹿らしい武力なんかは、むしろもっとやってもいいのではないか、とも思うのですが。

 

あとは、セイキョウを演じた本郷奏多か。この人を初めて見たのは、『白戸修の事件簿』で、千葉雄大と良い感じのイケメンコンビを演じていたのが印象深い。それが、いつのまにか、本当にイヤらしい顔つきの薄弱な王弟となって現れたのにびっくり。

これが演技とは思えないほど、イヤな感じが出ていて、演技であることを祈りますが、そうであれば将来大成してくれるのか。

良い人役イケメン役よりも、やはり悪い人イヤな人を演じられるのが、やはり役者の技量でしょうし。

 

 

藤城清治 愛生きるメルヘン展を観た

宮崎県立美術館にて

 

2020年の国文祭・芸文祭のプレイベントらしい。

 

ここには転載してはいけないのだろうけど、影絵の作家さん。御年94歳!

何で見たかは分からないぐらいに、当たり前に身近なところに存在していた影絵作家で、おそらく童話とか子供むけの本とかで見ていたのだろう。

 

その時期の作品は、なんともなつかしいノスタルジーの世界に浸ることが出来た。

 

しかし、この人の画業全体として展示を見ると、また違う側面があった。

 

圧倒的な作業量と、光の使い方の上手さ。ガラス越しに伝わってくる光の美しさ。そのあとの常設展の作品群が、あまり明るい場所にはなかっただけにそのコントラストが凄まじい。

 

この人の好きなモチーフ、小人、カエル、ネコ。

小人はなつかしく好きだったけど、カエルはよくわからない。ネコは微妙か。

 

あとは、わがふるさと宮崎と神話をモチーフにした画の数々。

とくに、高千穂峡には圧倒された。あれの複製(というか通常印刷のポスターで十分)こそほしかったのだけど、売ってないし、小さい複製画で、10万円を超すという。とてもじゃないが手が出ない。通常の複製画(何号というのかわからないけど、A3版ぐらいの大きさ)でも、50万円ぐらい。通し番号がついているから十分に価値があるのだろうけど、まぁ私には手が出ない。

 

いずれにせよ、幻想的な光景が多くあり、その中で小人とか懐かしいキャラがあり。

 

ただ、年が年だけにこの人も戦争の影を引きずっていた。

知覧で古い友人の事を思い作った作品には、自分の画業の集大成と書いてあったが、お気持ちとしてはそうなのだろうけど、という。

存在感というのか、思いというのか、はヒシヒシと伝わった。

 

誰かが言っていたが、作者の思いと作品とは分けて考えないといけない、というのはこういうことを言うのかもしれないと思った。

(とはいえ、金魚作家の人への感想は、これとは逆向きの感想にも思えるが)

 

いずれにせよ、2020年にあるであろう作品展も、そして、宮崎空港の作品もこれから観るのが楽しみだ。

 

 

と、あとはゲスな感想。

物販のスペースが大きい事、そこに携わる人々の多いことに驚いた。

そして額が高いことに、いささか興ざめ。

 

この人の作品の作り方は、昔の白黒時代は違うのかもしれないが、今は大きな工房で沢山の人を使い、そしてデッサンするときもずいぶんな時間をかけているようで、それらを構成するためには膨大な時間とカネが必要になるのだろうから、それはそれでしょうがないことなのだろうが、そうはいってもなぁ、というのが正直な気持ちではある。

 

さらに言えば、勿体ないなぁ、と。氏の作品をもっと簡単にいきわたらせ、そして鑑賞することは出来ないものか、と感じた次第。

金魚絵師 深堀隆介展 平成しんちう屋 を見た

「金魚絵師 深堀隆介展 平成しんちう屋 ~行商編~」

を見てきた。宮崎アートセンターで。

 

以前から観たいと思っていた作家の作品展。水の中に金魚がいる。生きたような、そのままの水のような。

 

この人の金魚関連の作品作成の軌跡が示されていた。

 

あくまでも主観にもとづいた感想なのだけど、

 

この人はこの作品を作りたいわけではないのだろうな、と感じた。

 

技術水準があがっていくのは、時間を追ってみているからこそよくわかるし、

本人が書いていたように、ある日突然、この表現方法を思いついた

というか、浮かんできた?うろ覚えです。というのは本音だろうし、もちろん、そこに至るまでに、随分沢山の試行錯誤もしただろうし、いろんな模索もしていたのだろう。

 

その片鱗は会場のあちこちにあった。『自画像』だったか、胸像の中に、肺をもした透明な入れ物をおき、その中にタバコの吸い殻がつまっているもの。

あるいは、『さんま』だったか、骨だけになったさんまを樹脂の中に入れたもの、こういうものが、この人が模索していた世界なんだろう。

 

で、それでは世に出られなかった。壁にぶつかり模索し、呻吟し苦しんでいたときに、出会ったのがあの樹脂の中の金魚達なのだろう。

 

そのこと自体は良いのだが、時代が進むにつれての、この人の作品の方向性がよく分からなくなってくる。苦労しているんだろうな、苦悩しているんだろうな、というのは良く伝わるのだが、なんというのか、マンネリにおちこんでいるのだろうな、という感が強くした。

 

しかしながら、作品そのものは面白いし、これからも見てみたい。

 

だからこそ、この壁を打破していただきたい、と強く感じた。